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【広告】北欧スウェーデンの自動車メーカー・ボルボのCMに男性二人のカップルが登場

北欧スウェーデンの自動車メーカー、ボルボの新型XC60のCMに恋人どうしと見られる男性二人が登場しました。動画はこちら。

恋人同士と見られる仲の良さそうな二人組が何組か登場し、助手席にいるパートナーを愛おしそうに眺めたり、野原を走り回ったり、向かい合いながら見つめ合ったり、大自然の中で抱き合ったり、そんな人生の一部としてボルボのクルマがある、という構成です。

男性同士のカップル以外にも男女のカップルが表現されていますが、動画のサムネイルはこのシーン。ボルボの意図を感じます。

●「ボルボのCM、ホモじゃん」

動画のキャプションにはこうあります。

これが、北欧のダイナミズム。ボルボXC60が9年ぶりのフルモデルチェンジ。衝突回避のためのハンドル操作を支援するステアリング・サポートが新たに加わり、先進の安全・運転支援機能はボルボ最高クラスへ。ダイナミック・スウェディッシュSUV、NEW VOLVO XC60誕生。人生に、北欧のきらめきを。

LGBTがどうの…とか、一言も言ってない。

今回のボルボのCMは、「LGBT支援してま〜す性の多様性すごい!っていうより、男性と女性のカップルも、女性と女性のカップルも、男性と男性のカップルも、それ以外の組み合わせも、あくまでも、色々あるカップルの組み合わせの中の一部にしか過ぎないっしょ?別に特別じゃなくね?」という表現のように私には感じられました。

広告を見るのは消費者です。広告はデザイナーのために作られるのではなく、消費者に消費を促すために作られています。なので私はよく、広告を見た消費者の反応を見るために、ツイッターでツイート検索をしています。今回も「ボルボ CM」で検索してみました。

2017年11月17日12時現在のフィード。消してある部分はフォローしている鍵アカウントのツイートです。

反応を大きく分けると三種類。

①「ナレーションをやっている声優の諏訪部さんという人の声がめっちゃいい。」

②「自然にゲイカップルが出てきた。先進的だ。」

③「ホモじゃん、腐女子は見るべき!!!」

うっ。

一応説明しておきますが、「ホモ」という呼び方は蔑称として用いられてきた歴史があり、現在では差別用語として捉えられています。「ホモ」をすすんで自称する男性同性愛者も中にはいますが、人を「ホモ」と呼ぶのはいかなる場合でも不適切であると私は思います。

しかし、男性同士のカップルを差別的な意図がないとしながら「ホモ」と呼ぶ、ボーイズラブをテーマにした漫画や作品のファンも一部にいます。そういった一部の人が、このボルボのCMを「ホモ」と呼んでいるようです。なんかな〜…。

「男女のカップルだったらまあわかるけど、なんでわざわざ男同士にしたん?」というやつです。

逆に、男女カップルである必要は?

ターゲットにしている消費者は異性愛者だけじゃないはずです。異性愛至上主義的なCMを流すということは、同性愛者の消費者や、時代遅れの広告を打ちまくっている企業に不快感を覚える人たちをごっそり自分たちから手放すということです。

というか、逆に今までクローゼットの中に押し込まれていたカップルや人々がドアを開けて出てきて広告やドラマに登場し始めたってだけだし、時代の変化に対応した素晴らしい広告だと思いました。わかんねえ!見たくねえこんなの!と言ってる人もいるけれど、こういう広告を評価して消費する消費者もちゃんと、日本にもいるはず!広告を作る人!めげないで頑張って!!

私の一番大好きなブログの著者、みやきち氏の記事の中の引用を、引用します。リンク貼っても読まない人、いるだろうし。

引用元の記事はこちら

公私の区別を規定しているさまざまな約束事は、ある者に対して機能する場合と、また別の者たちに対して機能する場合とで、不平等であることが分かる。異性愛者は、自分たちの異性愛の徴をどんなものでも露出することができるという社会的特権を享受している(婚姻公示、指輪、家族での外食、社交界への参加、職場でのお喋り、など)。そして自分たちが社会に合致しているということで、露出症と見なされることもなく、あたう限りの象徴的な利益を得ているのである。逆に発言者が同性愛者である場合、同性愛者が個人的にせよ集団的にせよ公然化する場合、いつでもそれは、すべて時宜を逸した場違いで不作法な行いと見なされる。

多くの社会的な振舞いが、例えば街頭でパートナーと手をつないだり、同僚にパートナーのことを話したりといった何でもないことが、異性愛者の大半にとっては完全に「自然な」ことであるのに対して、ゲイやレズビアンの場合となると、露出症の一形態ということなって耐えがたいものだとみなされる危険があるのは明らかである。しかし、もしも多くの人が少なくとも公式には認めているように、同性愛が本当に正当だというのなら、そのような露出症は実は表現の自由の純然たる行使であると考えられなければならないはずである。異性愛者は自覚していないかもしれないが、その自由を特権的に享受しているのである。

『〈同性愛嫌悪(ホモフォビア)〉を知る事典』

(ルイ=ジョルジュ・タン編、明石書店)の「露出症」の項目(p. 591)より

「偏見ではありませんが…」とか書いてた知恵袋の人に読んでもらいたいな。これ。

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武蔵野美術大学内でもやっと活動しているグループです。月一の映画会と週一のランチ会、ワークショップ、展示など。

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